なぜ買う気が起きない本でも図書館で借りるとけっこう面白いのか

versaloft2008-03-06


図書館が好きだ。

本が好きなのはもちろんだけれど、本棚に囲まれた静かな空間が好きなのかもしれない。先日、青山一丁目界隈で時間を持て余してしまい、新しく出来た赤坂図書館を訪ねてみた。広い、きれい、趣味がいい。完璧だなあとうれしくなったが、残念ながら僕がかようにはちょっと遠い。
しばらくして、たまたま府中の旧市民会館にいく用事があって、今度は府中市立図書館が引っ越して来ているのを発見した。ここも、さらに広い、きれい、趣味が良い、本以外の視聴覚ものも豊富だ。素晴らしい。
小学生の頃、以前の府中図書館の真ん前に住んでいたこともあり、足しげく通って、高校時代に至るまで入り浸っていたのであるが、あのいつもトイレの消臭剤のにおいがした時代とは大違いで、ほんとに洗練されている。しかし、ここも通うには難がある。

というようなことを考えていた僕だが、先日ついでがあったので近所の世田谷区立の小さい図書館に寄ってみた。図書館というものは目的があって本を探すよりも、ぼんやりと背表紙を眺めては面白そうなものを探すのが醍醐味だと思うので、小さい図書館はあまり気が進まない。で、いままで利用することが無かったのだけれど、なんといつのまにか自宅からweb経由で世田谷区立全図書館の本が検索できて、予約も出来るようになっていたのだった。しかも本が指定の図書館に届いたら、メールで知らせてくれるのだという。なんて便利なんだ。

さっそく、気にはなっていたが買う気にならなかった本(失礼)を何冊か借りた。
その中で面白かったのはこれ。
むかし<都立高校>があった」奥武則

学校群制度の導入がそれまで存在していたナンバースクールの伝統を破壊してしまった顛末を、学校群以前の都立高校出身者である作者が綴っている。古き良き美化された部分があるのだろうが、それほど嫌みではなく、貴重な記録だと思う。僕の世代はすでに学校群で、しかも僕自身は高校受験の経験も無い私立育ちであるので、ナンバースクールがどうなろうが知ったことではないのだが、それよりも興味は別のところにあった。

受験制度を変えたら現在のような結果が待っているのは十分予測できていたはずだし、そういう意見も現にあったのに、なぜ「都立高校を変えれば東京の高校受験への過熱が解決できる」ということを信じて、誰も止めなかったのかという理由が知りたかったのだ。人間というのは年を取ろうが重い地位に就こうが愚かなものであって、「それはこうなるに決まってる」というふうに考え出したら、往々にして間違うということだなあ。一人の人間の視界というものは思った以上に狭いものであるらしい。結局のところ学校群と云う「平等を目指した制度改革」は逆効果で、受験の戦場は都立高校から私立中学へとシフトしてしまい、小学生たちの塾通いを増やして、経済力がなければ国立大学の進学はやたらに不利、という極めて不平等な世の中に傾かぜてしまったのだから。

古い話だが、昔、国鉄ゼネストというものがあった。「国鉄が止まったら物流も止まって、国全体が麻痺してしまうのだから、政府も要求を受け入れるに違いない」と考えた指導者たちがストを始めた。でも何日間も国鉄が止まったのに、物流はトラックなどの自動車の時代に既に変わっていて、ちっとも麻痺なんかしなかったのだという話を読んだ。それもまた似たようなもので、自分中心の思い込み、は正常な判断を狂わせてしまうものなのだ。

都立校を「平等にしよう」とした指導者やブレーンたちは、きっと都立校を買いかぶるあまり私立のちからを見くびっていたのだろうなあ。徹底的に駄目になるまで、手を付けられなかったのはきっとどこかにその愚かさを認めたくない気持ちが強くあったのではないかなあ。