なぜ遠藤賢司を聴くと高校生の頃の自分を思い出すのか

versaloft2008-02-04


ティーンエイジャーの頃の愛聴盤を取り出して聴く。
とてつもなく切ない。

当時は麓でこれから登る山を見上げて、不安でたまらない気持ち。今ではさらに絶壁のテントで吹雪にさらされながらそれを振り返って思い出している。そんな気持ちだ。

つまり、当時はこう思っていた。「いったい僕はどうなっちゃうのか?」

夢とか希望とか、大人は爽やかな言葉で言うけれど、当時の僕は半分自棄のような気持ちでいたような気がする。だからがんばらないと、と言う気持ちより、闇雲にボタンを連打しているような、そんな気持ち。

何者になれるのか皆目分からず、何になればいいのか教えてくれる人もない。どれもこれもうまくいかないし、人より優れた能力があるとも思えない。そんな自信の無い、頼りない自分が「子供部屋」で聴いていた音楽たち。それは寂しく朗らかでカッコよかった。バックのミュージシャンがはっぴいえんどだったということは、少し後で気が付いた。

「待ちすぎた僕はとても疲れてしまった」とか、「ミルクティー」とか、このころの遠藤賢司は特別だ。歌もいいし、演奏も一種時代の空気を孕んで永遠のかっこよさがあるよなあ。

受験の季節、街で見かける学生達を見て、ずっと昔に通り過ぎたはずの気持ちを思い出す。