なぜ「秘密の本棚」を読んでいる時間はかくも幸せなのか

自分がとても例外的に幸運な時代に生まれたと思うのは、手塚治虫以降の漫画の歴史を少年期から見る事ができたからだ。

手塚治虫という太い縦軸を中心として、その惑星群であるトキワ荘グループ、対抗勢力としての劇画グループをかろうじて実感できる世代だった。小学生時代は少年サンデーを読みマガジンを読み、虫プロのCOMを読み、ガロを読んだ。山上たつひこの「光る風」に驚き「がきでか」に笑い転げた。宮谷一彦の「ライクアローリングストーン」に心酔した。

学んだ事は漫画の向こうに存在する「漫画家」を意識する事が、漫画を楽しむ方法の一つだ、ということだ。

それはむろん漫画家のプライベートを知るという事ではない。

作家がなにを考え、何を伝えようとしているか、ということだ。それを考え始めると画力のあるなしはあまり気にならない。写真のようにリアルな画が描けるということは一つの「表現方法」でしかないのに気がつく。なさけないヨロヨロの線が、どれほど雄弁かにも気づく。

いしかわじゅんという漫画家の存在も幸運の一つだろう。
いしかわじゅんは、漫画家として同じ時代の物語を語り継ごうとしている。これは漫画評論家では無理な作業だ。ミュージシャンが書き残す手記が評論家よりもはるかに多くを語るように。

いしかわじゅんの「秘密の本棚」を読んだ。

391ページ、上下2段組は大部で内容も濃い。ひとつひとつの漫画に、いしかわじゅんは作者が意図しているのとは別の物語を見る。それは僕が観ていたのとも別の物語だったりするのだが、それぞれが新鮮だ。同じ事が何度も出て来たりもするのだが、それもいいのだ。この本では編集という立場が多く語られている。それもまた漫画の謎を理解する上では必要なことだろうし、僕らには見えない楽屋話として楽しい。

僕は最近、漫画をライブで(週刊で)読めなくなっている。話に付いて行けない。楽しめない。かなり体力を要する。でも僕より年上のいしかわじゅんは読んでいる。エラいものだと思う。著書「漫画の時間」以来、評論集を読むのが楽しみでならない。自分の知らないいい漫画があれば、それをきっかけに本屋へ行く。当たりである。嬉しい。人生が豊かになる。