なぜパイプの煙を眺めて遠い目をしているのか

先日、小学校時代のクラスメイトたちと飲んだときに、N君がパイプをくゆらしていた。
恰幅がよくて、ひげが板についた彼には、その習慣がとてもよく似合っていた。
「パイプ、似合うじゃない」というと、医者に言われて紙巻タバコは止めたんだけど、と照れた風に云う。
彼が使っているパイプは鉢が大きくて、色が黒く、サンドブラストというのかラフな削りがダンディなルックスで、そのデザインもN君に良く似合っていた。
ある街にパイプタバコを扱う店があって、そこにお気に入りのブランドを買いに行くのだという。酒を飲みながらの雑談だったのでパイプの薀蓄はきれいに忘れてしまったが、その甘いヴァニラの香りと、小学生の頃、音楽や道具や大事なものの説明をしていた時の彼と何も変わらない丁寧な口調は良く覚えている。

その様子をふと思い出して、この週末久しぶりに、父親が遺したパイプを出してみた。
ビリヤードといったか、小ぶりでスッキリしたデザインが英国っぽいと思う。見ているだけではつまらないので近所のタバコ屋に行って、パイプタバコを買ってみた。タバコを止めてもう20年近くたつと思うが、なんとなくパイプタバコの吸い方は覚えていた。なるべくゆっくり、火を消さない程度にのんびりふかしてみる。舌の上に煙の味が残る。雰囲気としては面白い。肺まで煙を入れたつもりもないのに、久しぶりのニコチンにちょっとくらくらする。

それを見ていた娘が「タバコはがんになるから吸っては駄目」といって怒るので、「わかったわかった」と返事して、ちょっとためして止めておく。まあ、パイプは格好いい習慣だけど、常習するほどの根性もない。この道具を持ち歩いて、美しく吸い続けるのは僕には荷が重い。

もうすぐ父の命日だ。供養に、墓前で一服すってやろうか。