なぜコミュニケーションデザインの本を読んで勝手に憤るのか

抽象的に語らないと、本当の意味が伝わらない。そんなことは時たまある。
感覚や気持ちは実態のないものだから、数字や形で表すことはできない。そんなとき、抽象的な言葉で言い表すことで、送り手と受け手が「同調」することができる。だからこそ誤解も生まれる。

「コミュニケーションをデザインするための本」(電通 岸勇希)を読んだ。

コミュニケーションをデザインするための本 (電通選書)

コミュニケーションをデザインするための本 (電通選書)

情報社会の変化に伴って、従来のマス広告の手法が通用しない状況が多くなっている。広告の作り手側から、新しいコマーシャル・コミュニケーションの手法を模索し、実践している著者が、実例と、経験に基づく意見を率直に記している。さらにはコマーシャルにとどまらず、社会的なコミュニケーションの新しい可能性についても述べている。

テレビCMの凋落や、新聞終末論をヒステリックに書き立てる斜に構えたマスコミ論とは対照的に、課題は何か、解決策は何か、を求める姿勢は好感が持てる。もちろん多忙を極めているに違いない著者が、丁寧に語っている様子には同業者としてほんとうに感服します。広告屋とマスメディアに関わる人間はみんな読め!あとで、とか言ってないで今すぐ読め!と強く願います。

筆者の「仕組みではなく、気持ちをデザインする」という抽象的な言葉は啓示に満ちていて、広告会社が持つ様々な手法への思い込みや傲慢さを戒めるものだと思う。その心意気は好きだ。その一方で、「ああ、そうだよね気持ちだよね、俺もそう思う」というお調子者をわかった気にさせる麻薬でもある。そんな傲慢な勘違いを、どれほど筆者は乗り越えてきたことだろうかと、心が痛む。

しかし、そういった逆効果や、既存のメディアを肯定する態度については、ニュートラルな立場を貫く以上避けられないのだろうなあ、とも思う。いい人だけど、そのぶん歯切れは悪くかんじる。メディアが時代に対応していないのではなく、使い手が対応していないだけ、というのが正しい意見だと思うけど、そのビジネス的なシステムも含めてメディアの特性なんだから、駄目なものは駄目、でいい気もするのですよ。

ターゲットを決めて、いま、「ターゲットはAをBだと考えている」というインサイトを発見して、「AはCでもあるんだな」という気持ちになってもらう、それをどうあやって達成するか考える、ということが広告の古典的基本だけれど、webが登場したからびっくりするような大発明が必要なのではなく、手法に執着せずに基本に立ち返る、ということから始めることが解決への近道なのかもしれません。

良書。ただし謙虚に読む人にだけ真意は伝わるであろう。