なぜ音楽の聴き方を読んでマーラーがもっと楽しくなるのか

岡田暁生「音楽の聴き方」を読んだ。

音楽に聴き方などあるのだろうか、と思っていた。よりよい聴き方はあるかもしれないが、それもまた個人的な意見にすぎないと思っていた。しかし、この本で語られている「音楽の聴き方」は普遍的なものだ。

演奏を聴いて感想を求められても「音が大きかった」としか謂う言葉がないのは情けないが、一方でいつも感動などしていない自分もいるわけで、実に音楽を語るのは難しいものだと思う。

著者は音楽には本来「意味」が込められていたのだという。音楽を聴くときにはその背景や時代の持つ共通言語的なものが不可欠だったはずが、いつの間にか「音楽に国境なし」「言葉ではなく感じるもの」となり、抽象的で神聖な存在になっていった歴史が語られる。

しだいに「からっぽ」になっていった音楽は、中に様々なものを込めることができるようになる。その一つがナショナリズムだ。戦時下のベルリンでは空襲におびえながらもベルリンフィルの演奏会が開かれ、聴衆たちは陶酔して聞き惚れる。

もっとも、著者が謂わんとしているのは自分なりの聴き方を確立することを勧めているので、立派な聴き方があると謂っている訳ではない。むしろ権威や「名盤」を鵜呑みにしないで、なるべく生の音を聴くことを勧めているのである。そのために、うまい下手はともかくアマチュア演奏家になることの効用にも言及している。うーん、その通り!実に腑に落ちる。

この本は読んでよかったな。
自分の田んぼに水が引けるから、だけではもちろんないですよ。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)