なぜ詰め込まないとスカスカな人間になると云われてびびるのか

鈴木鎮一「愛に生きる」講談社現代新書を読んだ。

ヴァイオリンで有名な鈴木メソードの鈴木先生である。「才能は生まれつきではない」という副題がすべてかもしれない。幼いときから徹底的に練習して高いレベルに到達してしまう教え子たちが、その教育法の凄さを証明してきた。先天的な才能のあるなしではなく、育てたか育てなかったかが結果をもたらすのだと解く。音楽教育という曖昧で建前と権威がまかり通る現場で、この主張を貫いて実績を残したのは偉い。

音楽的才能を先天的なものとしておきたい人は多いだろう。誰しも責任の所在は自分にないと思いたい。でも鈴木先生はそれを許さない。出来ないのは努力が足りなくて、考えが足りないのだという。そうは書いていないが、文意は明白である。環境が才能を決定するという主張は、人の親である自分にもとても痛い。鈴木先生の説く教育法は、怠け者には恐ろしいことである。個性を育てて自由に才能を伸ばしていこう、などという怠け者が大好きなロマンチックな考えは鈴木先生の前では寝言であろう。

この本は読んで良かったです。

ところで、この本も図書館で借りたのだがあちこちに傍線が引きまくられていた。

あいかわらず、見当違いなところに線が引きまくられている。もしかして本の内容とは関係ない、スパイ活動の暗号かと疑いたくなる。そもそも傍線を引きながら本を読むとどんないいことがあるのか、よくわからない。論文を書く引用箇所なのだろうか?鉛筆でだらしなく引かれたその様子を見ても知性がまるで感じられない。三色ボールペンの効用を説く斉藤某先生の意図とも明らかに違う気がする。公共心欠如という理由ではなく、むしろ「傍線を引きながら読まないと読書が出来ない」という精神的な疾患が原因のように思える。傍線が本の前半に多数あって、後半にはいると息切れしてくるのは集中力が落ちていくせいかもしれない。

が、このような障害を持つ者でも市民であれば差別することなく本を貸し出す図書館の博愛主義は素晴らしい。

愛に生きる (講談社現代新書)

愛に生きる (講談社現代新書)